雑感

帰省先からいま戻る。
正月から従姉とその子供が二人泊まっていった。
綺麗にこちらの滞在と重なる。
小学生二年と年長なのに、人の話を聞くと言うことがなかった。
従姉も「あんたムカつく」とかそんな叱り方をしてた。
あーいうのが平均的ないまの子供と親なんだろうか。


親のスネ囓ってる身で心配できた義理でもないけども、どうなんでしょう。



年末年始、飲み会に出る他は、本を読んだ。
実家にある本なので小難しいのではなく、文庫とか新書。


久々に浅田次郎『プリズンホテル』。
「ここで泣かせよう」という意図が見え見えなので、
一度読むと正直飽きる。


と思いきや。
初読ではホロリとも来なかった部分に泣く始末でした。
成長したのやら、涙腺が老いたのやら、単に心が荒んでるのやら。

趣味生活。

久々にギターを弾く気になる。
演奏会が失敗に終わった直後であり、タイミングの悪さだけはすごい。

本番三日前に、左手深爪したまま練習してたらメコメコ中指の爪が剥がれたんです。
ぱっと見分かんないけど、地味にすっげぇ痛いんですこれ。
肉と爪の間に弦が来ると「アーォッ!」とか声が出るくらい。
16分音符なんて弾いてらんないっすよ。一小節当たりのリスク四倍じゃないですか。

そんな愚痴こぼしながらルネサンスの曲弾いて帰ってきました。

コード理論が面白そう。
小説の構造的読解なんてものもずいぶん興味があるけど、
コード理論から見た楽曲はまさに構造の世界。
でも楽器経験浅いから、感覚的に分からないのが辛い。
D#の増5度は?なんて言ってもぱっと分からない。
いち、にー、さん、と数えて分かる程度。

で、あとアコギっぽくコード弾き。
正直知ってるコードなんてC,Am,Emくらいなので、
理論と一緒にぼちぼち進めよう。さすがにいまさら運指では困らない。

継続が必要な分野は他にいくらでもあるのにね。
英語。数学。経済学。

まあいいや。
やる気がある時はやる気があるものをやろう。

『有頂天家族』の構造分析

夜中(明け方か?)に書いた文章を
朝に読み返すとどうなるかを知りたいので書いた文章である。


買ってはあるが、まだちゃんと
物語分析の本は読んでいないのでテキトーに分析を行う。
そのうちジェラール・ジュネットとかに詳しくなりたい。
これでも確か経済学部。ミクロは未習。


森見登美彦有頂天家族』。
ネタバレでしかないので未読のヒトは注意されたし。




主な登場人物は


【下鴨家】
私、長兄、次兄、末弟、母、父(故人)

【夷川家】
早雲、海星、金閣銀閣

【天狗】
赤玉先生

【金曜倶楽部】
寿老人、弁天、教授、その他


と勢力別に分類すると上のようになる。


この物語の軸となる要素はいくつか考えられるが、

1.下鴨家と夷川家の対立の解消
2.父親の死の真相の解明(次兄のえん罪・家族の再統合)


それから割かれている文量は少ないものの、
大団円の一角である
3.赤玉先生の復権
あたりが妥当と思われる。


2・3を通じ、1を最終的に実現する運びと見られる。


金曜倶楽部は1・2におけるツールとしての役割が強く、
狸たちと金曜倶楽部の関係、
そして金曜倶楽部の内面に物語を通じた変化は見られない。


1において、両家が公的に対立する理由を長兄が提供する。
長兄が夷川家に対する矢面に立ち、
「私」はどちらかと言えば金曜倶楽部に対する矢面に立つ。
途中において「私」が夷川家に積極的に関わることは少なく、
「降りかかる火の粉を払う」程度である。
最終的に夷川家と金曜倶楽部が結託し、
家族全体が危機に晒されるまで「私」はこの対立には踏み込まない。
そして一人称の文体のために長兄の政治的な駆け引きはほとんど描写されない。


統率者である長兄に対し、「私」は偵察者・探求者としての位置づけがされる。
早雲、金閣銀閣、寿老人は純粋な対立者であり、教授は葛藤を抱く対立者、
海星は夷川家の、弁天は金曜倶楽部の内通者、として位置づけが成される。


1に対して2を噛み合わせることでストーリーが展開する。
隠者である次兄を中心とした「下鴨家」を巡った主題である。
2を通じた父親の描写、揺さぶりを加えてなお強固な絆の提示により
家族の書き方に深みが加わると同時に、
「隠者による情報提供」と「土壇場での逆転手段」の
2つをストーリーにもたらす。
えん罪者である次兄、理解者である下鴨家、
真犯人として罰せられるべき早雲、情報提供者の赤玉先生、弁天、海星。



3を考える上では、なぜ赤玉先生が
「失墜した天狗であるか」を考える必要がある。
物語で「万能者」を出すべきではないということや、
弁天に対する束縛の排除という観点もある。


「失墜した万能者」が「世話役」の後の「切り札」になる展開は物語に多く見られるが、
「世話役」自身が「失墜の原因」でありながらも
なお「万能者」が味方してくれるという展開は珍しいのではないか。


また「失墜」に対する補償を「世話」と「回復」で
行わなければならないという義務感は主人公にとって
作中を通じて一種の行動規範となっている。
(風神雷神の扇も「赤玉先生にお返しする」と自明のように即座に決定している)


繰り返しになるが、この物語では「次兄」と「赤玉先生」の二つの切り札を使って
1の両家の対立を解決する。「次兄」はえん罪、「赤玉先生」は万能者の失墜と
モチーフとしては古典的なものである。


対立の正面に立つのが長兄である一方、「私」は
「次兄を巡る情報収集」、「赤玉先生の回復」、「葛藤する教授の離反工作」など
裏での諜報活動が多い。(これは好き勝手プラプラした結果ではあるが)。


【弁天について】
唯一金曜倶楽部と「私」を結ぶ情報提供者、
かつ作品のトリックスターとして重要な位置を占める弁天であるが、
弁天は「私」にとって「思い人」であり「親の敵」、
赤玉先生にとっても「失墜の直接的な原因」かつ「思い人」と相反関係を二カ所に持つ。
従って敵味方として縦横無尽に振る舞う弁天をいかに魅力的に描くかが
この作品のキモと言っても過言ではない。


冷徹な美貌を持つ弁天であるが、作中においては
酔態での弱音ともとれる言動、隠者である次兄への告悔(井戸の中へ涙だけ流す)
など人間味のある部分も複数点在する。
彼女は「大きな力を持ちながらも何をしていいのか定まらない人物」であり、
「天狗と人間の中間」であり、次兄に言わせれば「子ども」である。
「子ども」であることはトリックスター的行動への容認へ繋がり、
彼女を絶対悪とは言えない位置に落ち着かせている。


最終的に彼女は赤玉先生の元に戻るが、理由がイマイチ判別しない。
気まぐれの一種ともとれるし、教授の身を守るためともとれるし、
赤玉先生の復活(とはいえ扇を取り戻したに過ぎないが)のためともとれるし、
「私」のがんばりに報いるためともとれる。
このあたり、読みが足りないかもしれない。


【末弟の存在意義】
「私」が不在の間の「赤玉先生世話役」の代替であり、
有事の際に「私」の代わりに自由に動かせる駒である。
また、のらりくらりと暮らす「私」が兄という「常識的な」顔を見せるのもこの時である。
長兄と折り合いの悪い「私」にとって、
兄弟仲が発揮できるのは隠者である次兄を除けば末弟に限られる。
弟が父親から純真さだけを受け継いだ、化けるのが非常に下手な狸、
という弱者として描かれているのも、
家族のなかで庇護されるものとしての役割が大きいためではないか。


【早雲が母を想う理由】
ストーリーから必然性は大してないが、
父親兄弟の仲違いの一つの理由と考えられる。
また、あくまでユーモラスな狸の話であるから、
早雲を弱みや人間(狸?)味のカケラもない狸と描写することに抵抗があったのではないか。
寿老人に対して相対的に地位が低いこともこのためではないだろうか。


【寿老人】
「福々しい顔」、「自家用電車」、「高利貸し」等の表現から、
寿老人はほぼ間違いなく「夜は短し〜」の李白老人である。


他作品との繋がりを設けることの多い森見登美彦であるが、
「対立者」という「夜は短し〜」とは違う視点から李白老人の描出を掘り下げることや、
金曜倶楽部という一種の「奇行」を「夜は短し〜」の幻想性と同じカテゴリーに
組み入れることである種の「妥当性」のようなものを表現しようとしたのではないか。




【主人公たちが「狸」である必然性】
冒頭から主人公は「女子高生」の姿である。
「化ける主人公」の利便性はこの時点で既に発揮されている。
下鴨神社に住む狸が化けて街に繰り出す。
この時点で読者、ことに京都在住者はへぇ、とついつい引き込まれる。


一方、
叡山電車に化けて敵地に乗り込む」
「化けて人目をかいくぐる」
「虎に化けて攻撃する」
などの「化けること」の他機能は他のことで代替可能である。


車に乗ればよろしい。
変装すれば事足りる。
凶器を使えば確実だ。


しかし、これらをやるとお話はもはや「あぶない刑事」に近いものとなる。


もともと両家の対立に端を成す一連の物語は、
「マフィアもの」で十分に代替可能なのである。
下鴨家をあるファミリー、夷川家を敵対するファミリー、
金曜倶楽部は「これらに優先する第三者」、警察とでもすればよい。


敵対するファミリーは主人公たちを陥れるために警察と手を組むが、
警察の中に主人公たちから恩義を受けたものがいて事なきを得る。
あらすじはこれでも同じである。言われなき汚名を被った次兄、
現役を退いた先生的ポジション、関係者間を飛び回る奔放な女。
各人物も無理なく配置することが可能だ。
日本でやるならヤクザもの、となるか。


しかしそれでは「家族」の描写を暖かく穏健に入れることは不可能である。
さらに京都の町並みをのんびり書くことも不可能。
と言うより木屋町にカチコミに行く話など何か変にリアルで嫌だ。



主人公たちが狸であること。
それは「家族」の理想型と冒険的要素を
現代社会を舞台に並列して書くことを可能にし、
作品に幻想性を追加し、さらに演劇的・視覚的な面白さを加える上で
非常に有用な役割を果たしている。

今日の出来事

とはいっても、
昼過ぎに起きてゼミに行ってバイト行って焼肉行った。


行動単位で言うとわずか3つ。


サークルの人らと飯を食うのは楽しい。
楽しくはあるが、ここのサークルは基本的に内省的な楽天主義者の集まりなので
空気に当てられるとちょっと危険かもしれない。



院に行きたいのか、就職したいのかがよく分からなくなってきた。
就活のスタートをミスりつつある気もする。


ただ、文系のくせに専門職を
希望する自分にとっては院に行くのが安牌なのかもしれない。


で、考えてみれば就活→院試という順番なのだから、


いま条件に合う会社(留学の希望が通るか・勤務内容)が見つかればそこに行けば良し、
ないならば院試を受けてみればよし。


となる。
じゃあ今すべきことは就活だ。


おお、結論が出た。

今日の書評

部屋に本が山積みになっている。

胴体くらいの大きさの本棚が一つあって、
入りきらない本はまとめてその前に平積みにしてある。
本棚自体を覆い隠すような山が五本あって、
なんだかアブシンベル神殿とか凱旋門とかを連想させる。

現実問題として非常に邪魔である。これでは本棚が機能しない。
一刻も早く読み尽くして、しかるべきところに売り払わなければならない。


しかし、こういう時に限って前に一度読んだ本を読み返すと面白い。
村上春樹の「世界の終りと〜」の下巻(上巻は売り払ってしまったらしい)を見つけて
読んだらハマッた。わざわざ上巻を買って読んで下巻も読んだ。

そして本の山に上巻が増えた。

いまは海辺のカフカを買い戻しそうになって我慢している。


森見登美彦の「太陽の塔」、「有頂天家族」、「きつねのはなし」も再読。

いまは「夜は短し〜」と「走れメロス」と「四畳半神話体系」を以下同文。



減らない本の山が頭に来るので書評の一つも書いてやろうかと思う。




【今日の書評】
「UFOが釧路に降りる」 (村上春樹 「神の子どもたちはみな踊る」)



しつこいようですが村上春樹
30ページと短いのであらすじは省略。

はじめに読むとなんだこれ、で終わる。

もしかするとこれは短編集ではなく長編なのかしら、
と思って次頁を開くとすました顔で別の話が始まる。
次章ではなくて別の話、である。


主人公と妻の関係。
これは「世界の終りと〜」での
「僕」と「図書館の女の子」の性別を逆転させた関係に感じられる。


「私に何も与えてくれない」
妻に何も与えられない主人公。


「彼女は君になにも与えることができない」
「僕」に何も与えられない「図書館の女の子」


この対応をメインに考え進めると、
「世界の終りと〜」で描かれた安らかで完璧でどこか見えない部分が不自然な世界と、
この夫婦が築いた家庭の対応もまた考えられる。


しかし妻にとっての状況は「世界の終り〜」より遥かに悪い。
「世界の終り」にある面では満足している「僕」とは違い、
妻は都会になじむことができない。


さらに地震によって突きつけられた「明日終わるかも知れない世界」という現実。
「世界の終りと〜」と似たような関係を夫婦で築くことができても、
現実は「世界の終り」のようなユートピアなどではない。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の「世界の終り」と違い、
「UFOは釧路に降りる」の「世界の終り」には終りがあるのである。


地震のニュースを五日間見続けた結果、
妻はユートピアに絶望し、主人公の元を去るに至る。



一方、残された主人公、小村。


彼は知らず知らずのうちに
「自分の中身」を箱に入れて釧路を訪ね、人に渡してしまうことになる。

この自己の喪失は「世界の終り〜」で主人公が影と切り離され、
やはり「知らず知らずのうちに」、心を失っていくようになることを想起させる。

妻にとって空っぽに写った主人公は、
恐らくここで本当の空っぽになってしまう。


最期のシーンが、墓石屋の向かいにあるラブホテルの中というのが興味深い。
こじづけるなら「生と死の狭間の場所」とも受けとることができる。
自分はここで、何か輪廻の間とか煉獄とか、そういう場所を想像する。


主人公は釧路で出会った二人の女性の片方に「箱」を渡す。
その後、このラブホテルに連れてこられるが、
ここで生じた問題も主人公の喪失の一端だろうか。


彼女は「箱の中身」が何だったかを主人公に宣告し、
主人公の腹に奇妙な紋様のようなものを書きながら、


(遠いところに来た気分がしても)「まだ始まったばかりなのよ」
と主人公に告げる。


そして話が唐突に終わる。



釧路で現れる二人の女性には何か超越的な側面が見られる。


彼女らは目印の「箱」が見えない状況にも関わらず主人公を特定する。
彼女らは互いを「仲間」というが、何の仲間かは明かさない。
彼女らは主人公の妻を「死んだ」と言う。
彼女の言葉は「圧倒的な暴力」である。


もちろんこれらの印象は主人公が勝手に感じたものであって、
事実とは違う可能性もある。
女性の片方は実際に短大に通っているし、
死神的な存在が何で短大に通うのかと言っても答えられない。
このあたりはメタファーでごまかすのがいい。
主人公がそういう風に感じた事実が重要なのである。
便利。


別の作品も加味して考えると、
地震」「圧倒的な暴力」「小さな箱」
『これらはすべて望ましくないもの』というカテゴリーに入る。


彼女らは「地震」と同じカテゴリーではないだろうか。


彼女らが乗る古びた「全自動洗濯機」のような乗り心地の車が、
なんとなく地獄の火の車のように思えてくる。


中身を取られ、宣告を受け、
空っぽの主人公の表面に書かれた紋様は何の意味があるのだろう。
彼を待つのは転生なのか懲罰なのか。


そして残る五つの短編を通じて徐々に救いの光明が示されていく。
もちろん話の相関は「地震」以外にはないが、
最期に納められた作品「蜂蜜パイ」で示される救いは、
「蜂蜜パイ」の登場人物のみならず、
小村にとっても、他の短編の登場人物にとっても救いなのである。たぶん。


とこのような妄想ができました。
楽しめた。

日記

<午前>
バイト先でアクセス解析
ゼミで半端に確率論の話が染みついているせいで、
数値の変動要因が全部確率的な「ゆらぎ」に見える。
きちんと統計使った方が良いのかな。

とりあえず当分はトラフィックを見ながら、
細かい部分の修正をお願いしようと思う。

好き勝手できるバイトではあるけど、
時給に見合った働きができてるかというと…うーん。


<昼>
バイト先の友人と昼ご飯。
日替わり定食のメニューに、トマトと豆腐のカプリーゼ。

たぶんモツァレラチーズを豆腐で代用してる感じ。
生でトマトが食えない自分でもおいしく頂けた。

某漫画で、
「ゥンまああ〜いっ こっ これはああ〜〜っ この味わあぁ〜〜っ
サッパリとしたチーズに トマトのジューシー部分がからみつくうまさだ!!
チーズがトマトを! トマトがチーズをひき立てるッ! 」
なんてセリフがあったのを思い出した。

トマトがジューシーなんて感じたのは初めてだ。
と、787円でえらく感動してました。安い。


でその人と、会社法の勉強会やろうぜ、
ということになって書店で本を見繕う。

エッセンスだけ勉強したい自分と、
法学部ということで条文ごと勉強したいその人。

ほどほどに折衷。というかだいぶ条文よりのテキストに決定。
開始は夏休み明けになりそうだ。
やる気が持続することを願う。


<午後>
昼寝したり、ぼんやりしたり。

地元の友達に曲を作れ、と言われているのを思い出した。
確かにたしか自分はギター部だけど、作曲なんかできねーよ、
と言う代わりに快諾してた。根拠もなく。

酒のなせるわざかな。

部屋にギターがあってもいい気がする。
2〜3万くらいの買ってみよう。
友達のギター0.1台分の値段だ。